世の中に擬態する

私は昔から、所詮”変わっている子”だった。

その決定打となったのは、母が担任の先生に書いていた連絡帳の中身を見てしまった時である。

 

「この年の女の子であれば、仲良しの子とお手々つないで遊んでいるのが普通ではないですか?私はそうでした。この子は学校から帰ってくるとずっと家にいて、友達と遊ぶことはしません。漫画か本をずっと読んでいます。スカートも履きません。女の子なら履くのが当たり前じゃないですか?」

ここまで詳細に内容を覚えている。

これに対して担任は、学校で頑張っている分家でくつろいでいるのではないか、みたいなことを返事していたように記憶している。

 

ああ、自分は普通じゃないんだな。

そう思った瞬間だった。

確かに、周囲の子たちと何となく距離を感じていることはあったし、みんな仲良しの子がいるんだなって思っていることもあった。鈍感で空気が読めないがゆえに、自分が”浮いている”状態であることに気付くのに時間がかかった。最後のきっかけが母の連絡帳だった。

 

そこから私の地獄の生活が始まる。

まず、周囲を見渡して”普通”そうな子を見つける。その子を観察する。行動をマネする。そうして集団に擬態することを図った。

しかしよく考えてみれば、そんな子気持ち悪い。私はさらに周囲から孤立していった。

 

そんな生活は、集団生活を送る大学生まで続いた。

 

その長年の生活の中で、自身にしみついてしまった考えがある。

・私はおかしい。

・私は周囲とは違う。

・私は周りに合わせる必要がある。

・常に正しいのは周りである。

こんなんじゃなくてもっとたくさんあるけど、要はこんなところ。この考えのもとで私の行動は形成されている。

 

だから、社会人になってもどこかに私の”普通”の象徴が必要だった。

しかし仕事の仕方も、考え方も人それぞれ。特に私はネガティブなうえに仕事ができないもんだからどんどん落ち込んでいった。普通に近づくことができない、それが精神を蝕んでいった。

そんな中で6年頑張ったけど、今現在休職中である。

 

今日職場の人と話して、その比べてしまう考えを捨てないといけないね、と言われた。

でも、私にとって集団で生活するにはこの方法しかないのだ。いままでこのやり方で何とか生きてきた。

周囲を見渡し、比較対象を見つけ、普通を目指す。そして他者からの称賛のみが自己の評価である。

間違っている考えなのかもしれない。でも、私はこの考え方でなければ、この生活の仕方でなければ生きることができなかった。

 

全くまとまらない。

でも一つはっきりしているのは、私はこの考えを安易に手放すことができないということである。それはイコール復職不可を意味する。

社会に必要とされていない。

生産性のある作業を一つも行うことができない。

価値のない人間。

自分で自分の首を絞める言葉ばかりが浮かんでくる。こんなこと考えたいわけじゃない。私だってハッピーに生きていきたい。なんで私には普通の生活ができないんだろう。

 

自分を偽り続ける強さがあったら、傷ついてへとへとでも普通人を演じて社会復帰できるかもしれない。でも、私にはその強さがない。

いや、これから身に着けることもできるのか?

考えを変えることは難しいけれど、強さを纏うことならできるかもしれない。

周囲をだませるくらいの強さを。これから鍛えていかなければ。

5月30日 晴れ

そよ風が気持ちいい休日、私は何をするでもなくスマホをいじる。
こんな時間がずーっと続いているのだ。休職してから丸2ヶ月が経った。長かった。


週に1回は職場に顔をだすようにしている。復職したときに気まずくならないためにと、体調の安定を図るためだ。この作戦はまずまずの効果を発揮している。


職場に行って必ず言う言葉は、早く復帰したい。でもそれに周りはNOを出す。分かってる。
こんなことを言いながらも、実際のところあんまり復帰したいとは思っていない。働かなくていいなら働きたくないのは当たり前である。建前上は復職したいと言っているし、実際問題お金がなければ生きていけないので仕方がないのだが…。


私には、中身と外見の乖離が激しすぎる特徴がある。これはいままで生きるうえで培ってきた生活の知恵だ。しかし、それにいま首を締められているらしい。でも、無駄だったとは思わない。その知恵をつけなければ、私はきっと早々に人生から離脱していただろう。

 


本当は、今あるお金を全部使って、誰も私のことを知らない土地に逃げてしまいたい。そして、必要最低限のバイトでその日暮しでいいからのんびり過ごしたい。いや、のんびりは今でも過ごしてるが、質が違うのだ。
海の近くがいい。アパートはユニットバスでも狭くてもいいから、虫が出ないところがいいな。テレビはこの際捨てちゃったっていい。フライパンは2つだけ持っていく。服も半分くらい捨てちゃおう。


そして誰も私の特性を知らなくて、薄い関係で干渉しあわず、変な人だと思われても気にしないような関係性を保ちたい。
深い人間関係は時に救いだが時に足枷だ。

 

 

こんな妄想をしながら、今日も私は実行に移せずくすぶり続けるのだろう。
人生はとても素晴らしいものだと思うけど、終わりのタイミングを自分で決められたらいいのに。

経過

経過観察とoutputのために記載する。

現在、自分史上最高に鬱が悪化している。

年末から悪化傾向であり、1月から仕事を休んだり休まなかったりしている。幸い理解のある優しい職場であるため、現状を受け入れ私の回復を待っていてくれている。

3月下旬より現在にかけての経過を記す。

 

3/23~27 途中午前休があるも自分の仕事は全てこなすことができた。

3/30 1日仕事実施

3/31~4/3 全休 ひどいときは職場への連絡すらできない

4/6 午前中休んで午後出勤

本日4/7 全休

 

3/31

休みの連絡は入れることができていた。ベッドから抜け出せたのは16時頃。休んだことへの罪悪感でつぶれそうになる。仕事に行かなければと思いながらも、行けなさそうだな…という気持ちが強かった。

4/1

無断欠勤。またもや16時頃まで抜け出せず。17時に先輩同期に謝罪の連絡をする。しかし相変わらず外には出られず、仕事に行ける気もしない。死にたい気持ちが高まり、身辺整理のために断捨離とごみを集め始める。

4/2

だんだん活動時間が広がってくる。このままではだめだと思い、業務時間終了後に職場に行く。主任(同期)が残っており、現状と今後についての話し合いをしてくれる。そこで急務の案件を申し送り、心おきなく?休める環境を作ってくれる。主任の「しっかり休んで、無理しなくていい」という言葉に救われる。この場で明日の休みを伝える。

4/3

だんだんベッドから抜け出せる時間が早くなってくる。ここから趣味のハンドメイドを始める。ちゃんとご飯を食べるようになる。休んだ時の決まり事を決める。

 

このような経過をたどった。休んで3日ほどで現状と今後について考え、行動に移すことができるようになった。

また、急務案件を申し送り職場に現状を伝えたことによって、休むことに全力を注ぐべきだと考えるようになった。現在の自分の課題は療養であると認識できた。

 

4/4

受診。薬を増やしてもらう。買い物もできた。

4/5

予定をキャンセル。またもや趣味に時間を費やす。

4/6

行ける!と思うも身体が動かず、午後から出勤する。申し訳なさはあるものの恥ずかしさはなくなった。

4/7(本日)

全休。朝全く身体が動かない。

 

 

経過を記そうと思ったのは、この1週間で大きな変化が起こったためである。

その変化とは、”恥ずかしさ”が消失したこと。

転機は3つあったように感じている。

①「仕事に行かなきゃ」と感じる原因となっていた案件を手放したこと

自己啓発・鬱に関しての動画を見まくったこと

③主治医に「先のことを考えられないくらい調子が悪い」と言ってもらえたこと

詳しくは他でまとめたいが、仕事の憂鬱さというのが、担当している患者に対して謝罪して予定を組みなおしたりしなければいけに事であった。それを除外したいと思いつつも、自分から言い出すことができずにいた。しかし主任からそれを言い出してくれたことにより、自身の中に燻ぶっていた憂鬱さから距離を置くことができた。これが大きかったように感じている。

自己啓発に関しても、もっとしっかりまとめてほかに記したい。とにかくたくさん学ぶことにした。転んでもただでは起きないぞ!という気概が戻ってきた。

主治医に関しては、自身は今まで軽いほうの鬱であるというのは認識していたし、医者もそのような認識だった。診断書もなかなか書くのに苦労していた。診断がついていないからである。だからこそ、自分は鬱傾向なだけで鬱病ではないというあいまいさに苦しんでいた。しかし今回このような発言を医者から聞くことができ、専門医から見ても重い状態であるということを認めてもらえたような感覚になった。

 

そして7日である今日、休んでしまったがしっかりと療養するつもりで休んでいる。

これからも紆余曲折して進行していくと考えるが、それも含めてブログを書いていきたいと思う。

分かっちゃいるけど

分かっちゃいるけどそう簡単には行かないもので

 

私はバリバリ働く大人になりたかった 

なれなかった

でも、そしたら他の方面でできることを探せば良いし、その方面では活躍できるかもしれないし 

考え方を変えることで精神面も変わると分かってはいるけど、そのシフトチェンジが上手くいかないのよ

でもここで無理矢理考えを変えるより、自然に変わるのを待つほうが良い

いままでの感じからしてそれが正解な気がする

 

自分の傾向を知るためにこうしてアウトプットしていこうと思ってたのに。できてないし。

あーあ 自分にがっかりだよ

 

ちゃんと寝る。ちゃんと食べる。

できたら少しでいいからストレッチする。

仕事行きたくないねえ

3月15日

 世間はコロナで騒がしいけど、そんなことにかまっていられないくらい自分の体調が悪い。年始からからっきしダメだったけど、5月から自分流働き方改革をすると決めて少し肩の荷が下りて、もう大丈夫だと思ったのに…。どうしてもめそめそしちゃう。

 

 今の自分には、状況をすべてさらけ出して気持ちを聞いてもらえる人が職場の先輩1人しかいない。でも、木曜金曜と休んでいるこの状況で、甘えを聞いてもらうのはさすがに気が引ける。だから自分で何とかしたいんだけど、普段周囲の方々にどんな風に話していたかを振り返ってみた。

 

 結果、なんか自分の嫌なところを突き付けられた感じ。

 まず、私は話す相手を選ぶ。自分が今欲しい回答を言ってくれそうな人に。そのうえ、絶対に自分にとって都合の良い回答が返ってくるであろう話や話の展開を作って、欲しい言葉を頂戴する。

 

 これってさ、他者を巻き込んだ1人プレイだよね。

 

 めちゃくちゃダサくない?もうあなた28よ?もうすぐ29になるのよ?なんで自分の機嫌を自分で取ることができないの?もう落ち込みMAXだよ、自分嫌いが加速するよ。

 

 

 

 そんなこんなで落ち込みモードの日曜日、さすがに4日間引きこもりはまずいと思ってスーパーに行った。

 でさ、初めての感覚なんだけど、外が怖いのよ。人がたくさんいるところがもともと苦手ではあったんだけど、それとはまた違う感覚なの。外にいるだけで恐怖なの。もう認めざるを得ない。うつ病が悪化している。しかも今までで1番ひどいかもしれない。

 

 帰ってきて、食材買ってきたくせにお弁当買ってきて、それを食べて薬飲んで。

 眠剤入れるとなんとなくお酒に酔った感覚になるんだけど、それを利用して思考を制止させて。良くないとはわかってるけど、明日の出勤がうまくいかないといよいよ詰む気がするんだよね。とにかく明日は恐怖だろうが、泣こうが吐こうがとにかく出勤する。そして謝る。それを乗り越えれば火曜日からは何とかなるような気がするんだ。

 

 

 うつ病の症状の1つに思考制止というものがある。物事を考えられない状態のことで、例えば家事をその順序でやったら良いか考えられない、仕事の組み立てができない等。これが現れてくるといよいよ日常生活に支障が出てくるんだけど、最近うっすらそんな感じが続いている。”制止”まではいかないけど”鈍麻”って感じ。頭の中にもやがかかったような感覚で、なかなかクリアな思考ができない。

 こういう状態に陥った時は何事もルーティン化をすれば事が円滑に進むのかしら。そもそもルーティンに沿って活動する元気もなさそうだけど…。

 

 文章まとまんねえなあー

 

 うつ状態が続いてるくせに、不眠過眠を繰り返してるくせに、まだ自分が甘えてると思ってる。もしほかの人が同じ状態だったら、絶対自分はその人に休めっていうと思う。こっちは何とかしとくからって。なんでそれが自分に対してできないのかな?そろそろ自分のこと許してあげてもいいんじゃないの?もう少し甘えさせてあげれば?

 

 自分を許す=思い描いていた自分になれない っていうのが怖いのかな。バリバリ仕事して、臨床さばいて書類も完ぺきにこなして、なんだったら休日にほかの分野のバイトを入れて知見を広げるような、そんなバイタリティ溢れるかっこいい大人になりたかった。なれなかった。この先も無理だと思う。分かってるけどまだ受け入れられないんだろうね。

 

 新しい憧れを探すか、いっそのこと憧れとか目標とか持たないようにするか。

 何か目標設定をすると、足元を見ないで先ばかり見る悪い癖がるからなあー。

 

 

 全くまとまらない文章だったけど、今の自分の頭の中みたい。

 文字通り頭を冷やして(冷えピタ買ってきたんだ)寝ます。いい夢見れますように。できたら佐藤アツヒロが出てきますように。

 

 

書きなぐり

 自分のことが嫌いだと気付いたのはいつ頃だろうか。物心ついた最初の記憶は、小学生の時だと思う。一年生になった私は、学校というものをアニメの世界でしか知らなかった。教室内では生徒がざわざわしていて、先生が来たら誰かが「先生が来たぞー!」と叫んで、みんな一斉に自分の席に着く。こんな感じのことを知っていたんだと思う。

 だから、自分の学校のイメージ通りにした。その瞬間から、私のキャラは確立されてしまったように感じている。しっかり者、音頭をとれる、そして発言が好き。確かに自分は人前に出ることを苦だとは思わなかったし、自分の意見を言うことにも抵抗を感じなかった。しかしその反面、他者からの目線やうわさ話に気が付くことができなかった。いわゆる「空気の読めない」人間だったのだ。

 

 これに気付いたのは小学校も高学年になってからだったように記憶している。私の中では、友達とかグループとか休み時間に誰と過ごすとか、そんな概念がなかった。しかし周りの子供たちは当然のようにグループを作り、仲良しな子たちで集まるようになる。その仕組みを知らない私は、当然のことながら孤立した。

 はじめはお情けで仲間に入れてくれていた子たちも、先述の通り”空気の読めない”私に愛想を尽かし、仲間はずれにするようになった。その時私は、自分以外の子たちが仲良しなのだと思っていた。

 しかし仲間外れはだんだん顕著になり、とうとうあの言葉を言われたのだ。「どうしてこっちに来るの?」あの一言は私にとって雷が落ちたように衝撃的な一言だった。そこまで何となくでしか感じていなかった仲間はずれが、確かなものとして目の前に現れた。そして、自分の周りに建てられた壁に気付くこととなった。

 

 幸いにしてその事件は夏休みの直前に起こった。事件から夏休み開始までの時間にどう過ごしたのかは覚えていない。しかし母親が担任の先生との面談の後、泣きはらした目でこう言ったのを覚えている。「この夏休み、あなたが誰とも遊ばなくても何も言わないからね」

 その事件が起こらずとも、私は学校の時間以外で遊ぶ友達というものがいなかった。今考えれば友達の概念が理解できていなかったのだから仕方のないことに思う。しかし母親からしてみれば、自分の子供が誰とも遊ばず、毎日放課後は家に引きこもっていることがとても不安だったのだろう。何度も外で遊ぶように言われていた。しかし私には”外で遊ぶ”ということが理解できなかった。みんなが公園に集まったりしていることは何となく知っていたが、そこで何が行われているのかは知らない。私は本や漫画の世界に入るのが好きだし、その世界に少しでも長くいたいのに、どうして誰かに会わなきゃいけないの?

 そんな中起こった事件だったので、正直私はラッキーだと感じたように記憶している。だって今まで好きなことしてて起こられていたんだもん、この夏休みは好きなことしてても外に出ろ、友達と遊べなんて言われなくて済むんだ。そう思った。

 

 しかし母親の言葉は覆されることとなる。夏休みも中盤になってくると、毎日ずっと家にいる娘に息が詰まってきたのだろう。母親がたまには外で遊べと言ってきた。私は夏休みの初めに母親が言っていたことを思い出し、「そうだねー」などと軽く返事をした。その言葉に切れた母親が、泣きながら私の背中を殴ってきたのだ。「毎日毎日家にいて、ずっと本を読んで。少しは外に出たらどうなの!」そんなようなことを言われたような気がする。母親は、そのまま泣きながら家を出て行ってしまった。

 私は心底びっくりして、状況を理解することができなかった。え?だってお母さんが家にいても何も言わないって言ったんじゃん。あの言葉は忘れたの?私が邪魔なの?恥ずかしいの?その後母親は買い物の袋を下げて帰ってきた。様子をうかがいながら過ごしていたが、さっきのことには何も触れてこなかった。私も、もう一度言われても外で友達と遊ぶことはできないとわかっていたので、あえて自分から話をすることもしなかった。


 その日を境に、自分の中での自己肯定感が著しく低下していったのを覚えている。時期を同じくして、年子の弟は学校でも仲間が多い人気者、少年野球では4番でキャッチャーという自慢の子供をそのまま映したかのような人間だった。もともとそんな弟がうらやましかったし、両親が弟を自慢に思っていることも感じていた。そして、弟が引きこもりの姉を恥ずかしく思っていることにも気が付いていた。そんな兄弟がいる中、私は誰とも遊べない邪魔な人間なんだということを突き付けられた。そりゃあ自己評価も低くなるに決まっている。

 でも、その悩みや気持ちを打ち明けられる人は誰もいなかった。今になって考えると、本当にかわいそうな子供だと自分で思う。父親はほぼ不在、母親は弟が大好きで私が邪魔、祖父母も母親と同じようなことを言ってくる。私の周りには味方がいなかった。

 そこで私は生まれて初めて”死”というものを意識するようになる。死んでしまえばこんな悩みや恥ずかしさから逃れられるんじゃないかと。そう、そのころの私の中には恥ずかしいという気持ちが強く強く存在していたように思う。周りへの怒りや悲しみではなく、自分が恥ずかしいという感情。自分がすべて間違っていて、周りと違うことをしていて、自分だけが変な子なのだという考えに支配されるようになっていた。


 母親から殴られてから何日もこんな感情に支配されていた。まだ10歳だった私には、当然ながら限界が訪れる。そこで子供だった私は、当時の担任の先生に手紙を書いた。内容を詳しく覚えてはいないが、”毎日家にいて何もしないで過ごしていると死にたくなってしまう”みたいなことを書いたと思う。その手紙をポストに投函し、それだけでなんとなく気持ちが軽くなったことを覚えている。

 それから2,3日後、担任の先生から家に電話がかかってきた。その時間は母親はパート、弟は遊びに出かけていて、私は毎日一人で過ごしている時間だった。先生は手紙を読んだこと、そして明日学校に来るようにと言ってくれた。その電話で何を話したのかは覚えていないが、泣きながら電話をしたことだけは印象に残っている。

 学校に行くと、先生は教室に入れてくれた。誰もいない、何も音がしない教室。そこでジュースをくれたことを鮮明に覚えている。学校でジュースというのがとてつもなく非日常的だったのだろう。そこで先生とはたわいもない話をした。私は、先生に手紙を書いた時点で軽くなっていた心がどんどんふわふわしていくのを感じていた。私だけを教室に入れてくれたこと、ジュースをくれたことが嬉しくて、死にたいという感情が薄れていくのを感じていた。今から考えると、私は私だけを見てくれる大人が欲しかったんだと思う。なんの解決にもならなかったけど、あの時間のおかげで私は夏休みを乗り越えることができたのだ。今でも先生には感謝している。

 


 だれか私を好きになって、私を一番にして。そう思いながら泣いた夜がいくつあっただろう。

 そのころの私は今よりはるかに情緒不安定で、自分が嫌いで、なにより寂しかった。

 20歳を過ぎても彼氏ができず、自分に自信が持てない。にきびがひどくて鏡を見るたびに自分のことが嫌いになっていく。そのころには、幼少期にあった自分への自信や人前に出ることを恐れない気持なんか消えてなくなり、とにかく周りに合わせることを一番の課題として毎日過ごしていた。

 

 そう、かつて空気が読めない子だった私は、見事に空気を読むことだけにすべてのエネルギーを費やす人間へと成長を遂げていた。

 

 このころには自分のおかしさを自覚し、とにかく自分は変な人間、おかしい人間。周りがあっていて、自分は間違っている。周りに合わせることが正解で、自分の主張はするべきじゃない。そう考え毎日周りをきょろきょろしながら過ごしていた。高校生の時代が一番苦しかったが、それについては別で書き出したいと思う。

カヴァレリア・ルスティカーナ

 おそらく16歳からの12年間の中で、何度も思い出す音楽がある。

 カヴァレリア・ルスティカーナの、間奏曲。

 出会った時のことは覚えてないけど、きっと吹奏楽部の演奏会の演目候補の1つだったのだろう。演奏はしなかったけど。

 毎日聞くほどではないけど、ふとした瞬間に思い出す。あの曲、何て名前だっけ。メロディーは分かるのに、曲名が出てこないから検索できない。片っ端からクラシックの名曲を聞いて、ようやく曲名がわかる。そんなことを数えきれないくらい繰り返している。

 

今日は、今までの人生の中で1番死にたい夜だった。

この2日間、仕事に行くことができていない。

給料泥棒、職場のお荷物、迷惑ばかりかける厄介者。

職場の環境は決して悪くない。むしろ人間関係はとても良好だ。でも、私は仕事に行くことができない。とんでもないポンコツ人間だ。

 

2日家から出ていなかったけど、食料がなくなったからコンビニに行くことにした。こんな時でも腹は減るのだ。こんな人間をクズと言わずになんと言えばよいのか。

いつも行くコンビニには何となく行きたくなくて、行ったことのないコンビニに行くことにした。GoogleMapを頼りにして、夜道の中、アホ毛をそのままにして、すっぴんで歩く。こんな状態でも捨てきれない恥じらいが心底憎かった。

 

コンビニで思いつくままに買い物をして、濃いめのハイボールを飲みながら1人歩く。

その時、ふとカヴァレリア・ルスティカーナが聞きたくなった。

YouTubeで動画を探して、イヤホンで聞きながら夜道を歩く。ハイボールを缶のまま飲みながら。涙が出てきそうで出ない、苦しい感じが続く。泣きたい。泣けない。

 

今夜のことは忘れないようにしたいと思う。

何もかもが嫌になって、周囲の目を気にせずにハイボールを飲みながら歩いた夜を。

きっと今日以上につらい日もあると思う。そういう夜に、またカヴァレリア・ルスティカーナを検索するんだと思う。